1887年01月15日18時51分
神奈川県西部地震
名前 神奈川県西部地震
日時 1887年01月15日18時51分
震源 神奈川県西部
緯度 北緯35.4度
経度 東経139.25度
規模 M6.2
深さ 10km
出典 [2]
神奈川県西部地震の震度分布。中央気象台(1887)による。
概要
詳細
この地震は、関八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)、磐城・岩代・陸前・越後・信濃・甲斐・駿河・伊豆・遠江・三河・尾張・美濃・飛騨の21か国におよんだ。そのうち強震を感じた地域を挙げると、相模・武蔵・伊豆・甲斐の全域、駿河の東8分(10分の8)、信濃の東2分、上野の南2分、下総の西4分、上総の西4分、安房の西8分で、その面積は1,490方里に達した。このうち震動がもっとも激しかったのは相模の東8分と武蔵の南1分で、面積は141方里である。弱震・微震を感じた地域は、安房の東2分、上総の東6分、下総の東4分、常陸・磐城・下野の全域、陸前の南1分、岩代の東南4分、越後の南2分、上野の北4分、信濃の西8分、駿河の西2分、遠江・三河・尾張の全域、美濃の東8分、飛騨の南東8分で、面積は3,874方里。強震域と合わせて総計5,364方里の広範囲におよんだ。
いわゆる「震返し」(余震)が報告されたのは、伊豆・相模・武蔵・安房・両総(上総下総)の全域、常陸の南9分、上野・下野のほぼ全域、越後の南1分、信濃の東4分、甲斐の東9分、駿河の東4分である。なかでも甲斐・駿河・武蔵・相模・下総からは、本震後1時間前後のあいだに弱震・微震が8回ないし2回発生したとの報告があった。
相模国鎌倉郡では、地割れが2〜3か所、長さ10間〜15間(約18〜27m)、幅は2〜3寸(約6〜9cm)に達した。ほかに山崖の崩壊も1〜2か所あった。家屋の壁の亀裂はきわめて少なかったが、土蔵は多少なりとも亀裂を生じないものはなく、鉢巻・腰巻(土蔵の壁の装飾帯)が震い落とされたものが少なくない。また棚の上の器物や吊り下げたランプの類が転倒・落下した。総じて建物の被害は、山の手よりも田畑や海岸に近い地域に多かった。同国愛甲郡でも地割れがあり、幅は広いもので2寸内外、狭いものでも5〜6分(約1.5〜1.8cm)。地震後に井戸や泉の水量が減ったところもあった。土蔵のうち古いものは半数が壁を震い落とし、新築で堅固と評判のものもおおむね裂け目を生じ、その幅は5〜6分から2寸におよび、無傷のものは10軒に1軒であった。障子の類は亀裂を生じ、屋外では石灯籠・墓碑・石垣などが、屋内では庭先の什器や襖などが転倒・落下したものが多数あった。
同国大住郡でも半壊家屋が十数軒あり、道路が30間ほど崩壊した箇所があった。武蔵国久良岐郡では地割れが1か所あり、長さ20間ほど、最大幅は2寸におよんだ。井戸水が増えたところもあった。そのほか土蔵が傾き、壁に亀裂が入り、土台石がずれ出し、器物が転倒・落下したものが少なくない。
横浜港の被害家屋は、横浜市街で土蔵7棟・家屋3か所、居留地で煙突3か所・壁9か所、山手居留地で煙突9か所と半壊家屋1か所。そのほか屋根・天井・石垣などの破損が多数あったと報告された。相模国津久井郡あたりでも、壁が震え物品が壊れるなどの被害があり、ほぼ久良岐郡に次ぐ程度であった。また武蔵国橘樹郡では、海岸の土地が崩壊した箇所があった。
震度がこれに次ぐのは、武蔵・相模(前述の烈震部分を除く)、甲斐・駿河・伊豆・両総の西部・安房である。このうち震動が強かったのは甲斐国中巨摩郡あたりで、ガラス窓や古い障子がわずかに割れたため、屋外へ逃げ出した者が少なくなかった。同国北都留郡がこれに次ぐ。駿河・伊豆あたりになると、吊り下げた物品の揺れは強かったものの、落下や破損はなく、屋外へ走り出るほどでもなかった。
以上から見ると、今回の地震は昨年7月23日の信越地方の地震と同程度のものといえるだろう。[1]
周辺で起きた過去の地震
参考文献
1.中央気象台(1887):調査原簿,地震調査研究推進本部文献データベース.
2.茅野一郎・宇津徳治(2001):日本の主な地震の表,地震の事典,2,朝倉書店,574-637.